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マヨルカくる?

トメウおじいのLet’s徘徊

カリフォルニアにアーモンドを伝えた宣教師はマヨルカ人なんだよねぇ

投稿日:2019年9月30日 更新日:

ジュニペロ・セラ


毎度おなじみ、流浪のウェブサイト、マヨルカくる?でございます。

はい。今回は超まじめなテーマをですねぇ、できる限りおまじめに、おふざけなしにガッツリ掘り下げてみたいと思うんですよ。

みなさん、着いてきてますか?

トメウじい
おはようさん。

 

カリフォルニアアーモンド、超有名ですよね。アーモンドと言えばカリフォールニア。カリフォルニアと言えばママス・アンド・パパス。

ベルばあ
そうそうそう。みんなカリフォルニアを夢見てってアホ。

 

あなたのカバンの中のコンビニ袋の中の、おつまみアーモンド。これも、カリフォルニア産

あ、今食べたアーモンドチョコの中身、カリッとしましたね?これもカリフォールニアでございますよ。

そう、世界のアーモンド総生産量80%以上を占めているのがカリフォルニア。

世界のアーモンドシェアを牛耳る、アーモンドの権化みたいなカリフォルニアなんですが、実はカリフォルニアにアーモンドを伝えたのは、マヨルカのペトラ出身の宣教師なんですねぇ。

ベルばあ
ジュニペロさんやろ?
知らんのアンタだけばい。
マリア

え?あ?そ、そう?し、知ってたし。ジュニペロさんね、あの目のクリクリっとした、ね。

 

と言うことで今回は、壮大な歴史テーマを相手に、アホサイトマヨルカくる?が展開されていきます。

途中で寝ても大丈夫ですよ。明日、続きを読んでみてください。昨日読んだところ、もう忘れてるはずですよ。

ベルばあ
あんたと一緒にすなや。

 

 

アメリカ大陸到達!イヨクニ燃えるコロンブスはスペイン人

ベルばあ
あかん!そっからやったらあかん!
アホがさらにバレるくさ。
マリア

あ、そうね。じゃ、もうアメリカ大陸が発見された体(てい)でお願いします。

もとい、

 

カリフォルニアアーモンドはマヨルカのアーモンドの木の子孫なのである

ベルばあ
なんでそこに飛ぶねん?

え?だって、これ本題でしょ?

コロンブスがサン・サルバドル島に到達した1492年10月21日午後2時頃から始めると、大変でしょ?

スペインの黒歴史、ほじくりかえすのも、ねぇ。マヨルカ関係ないし。

開き直るのにも程があるばい。
マリア
ベルばあ
ちゅーか、ジュニペロさん言うたら、もっとこうアメリカにとって重要なな。人物のな・・・

 

はいはいはいはい。皆まで言うな。

えぇ、えぇ。アメリカ合衆国議会議事堂に銅像がある唯一のスペイン人でございましょう?

建築した教会群が世界遺産に指定されてるのでございましょう?

普通、そこフィーチャーするとこばい。
マリア

あ、そう?じゃ、聖ジュニペロ(フニペロ)さんの生涯と共に、カリフォルニアアーモンドを語ってみます?

 

カリフォルニアにアーモンドを伝えたマヨルカの宣教師の生い立ちとは

ジュニペロ・セラの肖像

時は18世紀初頭、海外貿易で賑わうマヨルカ島の中央部に位置する、ペトラ村で一人の男子が生まれる。

ミゲル・ジョセと名付けられたその男子が、将来荒海を越え、広大な未開の地アメリカ大陸へ渡るとは、その時誰も知る由がなかった。

トメウじい
じゃ、じゃ、じゃん、じゃん、じゃん。
なんね、それ。
マリア
ベルばあ
大河ドラマのアレやな。アレ。

テーマソングな。って、邪魔しないでいただけると非常に助かるんですけど。

 

Miguel José Serra Ferrer(ミゲル・ジョセ・セラ・フェレラ)は1713年11月24日、ペトラで農業を営む父アントニオ・セラとマルガリタ・フェレラの間に生を受ける。

同日、聖ペドロ教区教会でバルトロメ・レド神父により洗礼を受け、その記録は今でも残されている。

彼の生家はペトラのバラカル通りにあり、多感な少年時代をそこで過ごした。

彼の実家は、とても裕福とはいえるものではなかったが、彼はペトラで将来を決定付ける素晴らしい教育を受けることになる。

ペトラ聖ベルナルド修道院

それがこの修道院、聖ベルナルド修道院である。

トメウじい
ペトラの真ん中へんにあるアレやな。
せやな、アレな。
ベルばあ

だから、聖ベルナルド修道院だってば。

聖ベルナルド修道院は1607年にペトラに建設された、バロック様式の聖フランシスコ会修道院で、当時この教会はペトラで最も高く評価された施設であった。

ペトラの人々の生活に、非常に大きな影響を与えたこの修道院は、貧しい家庭で育つミゲル・ジョセにも分け隔てなく十分な教育を与えた。

当時最も有名で権威のあった教師の一人Fray Nadal Barceló(フライ・ナダル・バルセロ)に、文法、歌唱、ラテン語を学び、その才能を発揮していくことになる。

 

彼の両親は、ミゲル・ジョセの才能に気づいた聖ベルナルド修道院長の助言に従い、息子をパルマで哲学を学ばせることを選択する。

ミゲル・ジョセは1729年パルマに移り、修道士としての道を切り開いていくことになるのであった。

18世紀当時のパルマは、貴族中心の都市として栄えおり、大規模な宮殿が建てられ、古い都市はモダンなイタリア式に改装されていく中、デスプッチ枢機卿のように、貴族たちは海外で絵画や彫刻などを収集している時代、それが18世紀のパルマであった。

マリア
ベルベル城にコレクション展示しとーばい。
1ち〇こ、2ちん〇、の回やな?
トメウじい

そんなん思い出さなくても結構です。

 

彼がパルマに移った1年後の1730年9月14日、州大臣アントニオ・ペレ神父は聖フランシスコ会の命を受け入れ、ミゲル・ジョセを修道院に迎える。

この時、ミゲル・ジョセはジュニペロ・セラ(Junípero Serra)に改名。この名前は、聖フランシスコの伴侶(世俗の兄弟)であるアッシジのジュニペロ(Ginepro)、植物のセイヨウネズ(ジュニパー)に由来する。

(*ジュニペロはマヨルカ語の発音であり、スペイン語ではフニペロ・セラ)

 

トメウじい
マティーニ!

お酒の知識、半端ない感、やめてもらっていいですか?

ジュニパー

 

ジュニパーってなんね?

ジュニパーは、ジンの香りづけに使われていることで有名な果実です。

強い香りと苦み、若干スパイシーな感じで、ジビエ料理やハーブティなんかにも使われます。

味というより、香りメイン。口の中に、あのジンの香りがぼわーっと広がります。

11世紀頃のイタリアの修道士が、ジュニパーを蒸留酒に使ったのが始まりらしいですよ。知らんけど。

あ、ジュニパーはスペイン語でフニペロでございます。

 

トメウじい
ショリゲル!

あーもう。やめてもらっていいですか?

ショリゲルってなんね?

ショリゲルはマヨルカのお隣の島、メノルカ生産のジンでして、香りづけにジュニパーしか使わないジュニパー好きにはたまらないジンでございます。

程よい苦みとジュニパーの香りがガツンと味わえる一品でございます。現場からは以上です。どうじょ。

 

で、どこまで話しましたっけ?

ベルばあ
あんたが忘れてどないすんねん。

このジュニペロさん、ペトラの町を歩くと、至る所で遭遇することができるんですよね。

その模様は次回、「おじい、ジュニペロさんの生家を訪ねてみた」でお送りする予定です。

トメウじい
カミング・スーン。

 

ジュニペロ・セラの生涯をかけることになる使命との出会い

あのー。ちょっと口調がしんどくなってきたので、いつものあのマヨルカくる?っぽいのに戻しても構いませんか?

トメウじい
構わんよ。
謙譲語が武士っぽくなるクセ、やめた方がえぇで。
ベルばあ
マリア
あんたの前世、落ち武者かなんかね?

かたじけない。

 

ジュニペロ青年が、彼の生涯をかけることになる使命と出会ったのは、イエス修道院時代です。

彼は聖人の生涯についての伝記を読みふけり、聖フランシスコ会のスペイン人列福を学んだあと、宣教師になることを心に固く誓います。

あ、列福(れっぷく)ってのは、キリスト教において模範的生活を送った人物が天に召された後、崇敬の対象として公式に認定されることでございます。

ローマ教皇庁がポチッと認定するんですねぇ。

ベルばあ
その形容詞はあかん。

 

ジュニペロ青年はイエス修道院から聖フランシスコ教会に移され、そこに17年以上滞在することになります。

1737年に司祭に叙任されるまでの間、哲学の教師に任命され、告白を聞く告解をする権限も与えられました。

パルマ大聖堂、ミセリコルディア、サンタ・クルス、サンタ・クララ、サン・フランシスコ修道院を含め、マヨルカの都市モントゥイリ、アルクイダやブニョラなどで説教を行います。

司祭になったときは青年じゃなくて、もうジュニペロおじ・・・・

ベルばあ
あかん!

 

ルリアン大学で説教と教えの神職を通して、演説者としてのスキル、人々への癒しの才能を磨いていくんですね。

この経験は、新世界での宣教者としての多大な働きを支えることになります。

豊かなキャリアのお蔭で、この頃にはマヨルカでも名声高い司祭へと成長していたわけです。

ルリアン大学は、そのころ主題、哲学、神学、法学、解剖学の分野で高い評価を受けていた大学で、現在のマヨルカ大学なのでございます。1772年にマヨルカ文学大学になっております。

 

さようならマヨルカ 新世界ヌエバ・エスパーニャへの旅立ち

さて、いよいよ、新世界への旅立ちが近づいてまいりました。

1749年4月、ジュニペロおじ・・・あ、ジュニペロ壮年30歳。出発前にペトラに帰ることを許された彼は、ペトラの山頂にあるボナニ教会で説教を行います。

マヨルカペトラ・ボナニ

このボナニ教会、1697年に建設された聖母マリアのための神殿です。

今でも多くの敬虔な方々が登山されております、かわいらしい教会です。

マリア
あんた、徒歩じゃのーていっつもかっつも車くさ。

文明の利器、使うのはいたしかたない。

 

家族とフランシスコ会のコミュニティに別れを告げ、2週間後ジュニペロ壮年はマラガ港へ向けて出発します。

涙、涙の最後の別れとなるのは、みんな知っていたんですね。

もちろんジュニペロさん一人旅ではなく、伝記作家でもあるフライ・フランシスコ・パロウも任務に同行したわけなんです。パロウさんは彼の伝記を残していますよ。

 

ジュニペロさんとパロウさんは、最初の寄港地マラガに到着。そこで新世界への出発点カディス港を目指す前に、フランシスコ会修道院に滞在します。

数か月のカディス滞在中、新世界へ向けて出発する数日前、ジュニペロさんは彼の家族や友人に向けて手紙を書きます。

私はすぐにメキシコへ向けて出発することになるでしょう。

私は熱意をもってこの使命に向き合います。その私の感じる大きな喜びを最後に伝えたいのです。・・・

・・・そして、彼らは私にこの仕事を続けるように願うでしょう。私は、決して戻らないと思います。

涙で文字が滲んでいたなら、わかって~ください~。

ベルばあ
古いがな。しかし、生涯をかけはってんなぁ。

 

そりゃね、今と違って命がけですからね。飛行機ないし。スカイプないし。コンビニないし。ってマヨルカにコンビニないし。

あ、じいさん、起きてます?

ベルばあ
目ぇつぶって聞いてはんねん。

 

小生にはかなり荷の重い歴史背景ですので、ざっくりと当時のスペインを振り返り

当時のアメリカ大陸は

コロンブスのアメリカ大陸到達から始まった、スペイン統治。

当時はヌエバ・エスパーニャ(新しいスペイン)と呼ばれ、1519年から1821年まで北アメリカ大陸、カリブ海、太平洋、アジアのスペイン領に使われていた名称です。

アステカ帝国の征服に始まった、アメリカ大陸でのヌエバ・エスパーニャは、なんやかんやありながらも、1821年のメキシコ帝国の独立まで続くわけです。

ジュニペロさんが訪れたころのヌエバ・エスパーニャは、ローマ・カトリックが伝わった後だったんですが、それでも不安定な状態は続いていたんですね。

 

 

住み慣れた地中海から太平洋への大航海

ジュニペロ航海地図

1749年8月28日、ジュニペロさんとパロウさん、そのほか乗組員はヴィリャソタ号に乗って新世界へと出向しました。

2か月後の10月中旬、プエルトリコのサンファン島に立ち寄り2週間滞在、説教や告解を行った後、10月31日再びベラクルスに向かって旅立ちます。

長い航海の間、酷い悪天候には遭遇しませんでしたが、到着最後の2週間は水不足に苦むことになるんです。

パロウさんの伝記によれば、ジュニペロさんは唾液を無駄にしないように、話すことをやめ、少しの食糧でしのいだそうです。

梅干しとかは想像したらダメな感じですね。レモンもライムもスモモも、南蛮漬けとかもダメな感じですね。

あー、焼肉とかもダメな分類ですね。

なんこきよるとね。不謹慎なことば言わんと!
マリア

 

べラクスル到着 メキシコシティ徒歩で400キロの道

ジュニペロ・セラの博物館文書

12月6日、彼らはついに新世界の土を踏むことに成功します。

ベラクルス港では王の騎士団が彼らを迎え、彼らを街へ運ぶ準備が整っていました。

しかしジュニペロさん、フランシスコ会の謙虚さと厳粛さを守るため、馬に乗ることを拒否。徒歩で400キロを超える長旅をすることになります。

ベルばあ
あんた!コメント控えときや!

えぇ。沈黙は金なり。

 

べラクスルでの短い滞在期間中、ドミニコ修道会によって開催されたミサで、ジュニペロさんは説教を行います。

演説者としての彼の素晴らしい才能は、ミサに参加したすべての人々からめちゃくちゃ賞賛を受けるんですね。

この彼の説教者としての才能は、今後の宣教活動にとても重要な力となるわけでございます。

 

そして、ジュニペロさんご一行は、メキシコシティへ向けての400キロの過酷な旅へ出発するのでした。徒歩で

ねぇ、夢のカリフォールニア、いつ着くの?

ベルばあ
あほ!旅行ちゃうねん。使命やねん。布教活動してはんねん。

 

そうそう。ジュニペロさんの使命、新しい土地にミッションと呼ばれる、福音を広めるための教会を中心とした集落を建設するという、えらく大変なものだったんですね。

ミッションは、地元住民にキリスト教文化を紹介するとともに、人々への援助など社会的な役割を果たしていました。

 

ジュニペロさんは、メキシコのシエラ・ゴルダ、バハカリフォルニアに新たなミッションの建設をしていくんですね。

このシエラ・ゴルダに建築された教会群は、世界遺産に指定されているのでございます。

そして、現在のアメリカ合衆国カリフォルニア州に9つのミッションを建築したのが、このジュニペロさんなんです。

ワシントンに銅像があるのも、彼が北アメリカの創始者のひとりとして認識され、カリフォルニア州によって像の建立が提案されたとです。

 

マヨルカの片田舎ペトラ村で生を受けた少年が、大海を渡って聖人に、そしてアメリカ創始者の一員になった。

さらに、カリフォルニアの産業を支える、アーモンドを運んだ父になるわけでございます。

ベルばあ
なぁ、あんた。もう締めようとしてへん?
今からジュニペロさんの偉業が始まるとばい。
マリア

え?あ、もう翻訳やら調査やら疲れたし、じいさん明らかに寝てるし。

ここまで誰か読んでくれてるとは、にわかに信じがたいし。

ベルばあ
相変わらず自虐的やな。
ビバ!メキシコ!
トメウじい

あ、召されてなかった。

 

と言うことで、1749年の大みそかにジュニペロ・セラとそのご一行は、メキシコシティにたどり着きます。徒歩で

彼は聖フェルナンド宣教師大学に滞在し、そこで地元住民に福音を伝えるために必要なことすべてを学びます。

そして翌1750年6月1日、いよいよジュニペロ・セラの宣教師としての布教活動が、新世界で繰り広げられることと相成るのでございました。

 

 

ジュニペロ・セラのカリフォルニアへの過酷な道のり

ジュニペロ・セラは、まずはその手始めとして、聖フェルナンド大学が担当することになっている5つの地区のうちの1つ、ハルパン(シエラ・ゴルダ)のミッション建設に参加します。

高温多湿の中、食糧の供給と確保に苦しむ地元民を助けるための活動が開始されます。

それでは、彼がシエラ・ゴルダに建設したミッションの5つをサクッとご紹介します。

 

ジュニペロ・セラが建築した世界遺産シエラ・ゴルダの教会群

ハルパン

出典:commons.wikimedia.org

ハルパン(Jalpan):Santiago mission

コンカ(Concá):San Miguel mission

ティラコ(Tilaco):San Francisco mission

タンコヨル(Tancoyol):Nuestra Señora de la Luz mission

ランダ・デ・マタモロス(Landa de Matamoros):Purísima Concepción mission

ってな感じでございまして、2003年「ケレタロ州シエラ・ゴルダのフランシスコ会伝道所群」は、UNESCOの世界遺産に登録されたのでございます。

これ、全部マヨルカ島ペトラ村のジュニペロさんの偉業。

ベルばあ
あんた!サクッと紹介し過ぎやがな。
サクッとさにも程があるばい!
マリア

へいへい。では次回、「おじい、メキシコの世界遺産を訪ねる~行ってないけど」もお送りします。

だって、全部書いたら特番組めそうな勢いでございましょう?版権くれ!

トメウじい
ええで。

 

ジュニペロさん毒殺されかかるの巻

シエラ・ゴルダのミッション建設の後、ジュニペロさんご一行はメキシコシティへと戻ります。

そこで、ジュニペロさん危機一髪!な大事件が起こるのであります。

 

なんと!ジュニペロさんが飲んだワインに毒が混入されていたんです。

毒入りワインを一口飲んだジュニペロさん、すぐに神具室に運ばれ解毒剤が出されます。

しかし、ジュニペロさんは解毒剤を拒絶し、植物油を飲むことを選択するんです。

なぜ解毒剤を飲むことを拒絶したかと言うと、神聖なパンとワインを食べたのに、解毒剤を飲むことはできないだろう・・・と。

ベルばあ
聖人やな。

へぇ。その後ジュニペロさんは奇跡的な回復を遂げるとです。聖人です。聖人です。聖人です・・・

それも古かね。
マリア

そして、いよいよカリフォルニアへの道へ!

 

ジュニペロ・セラ、カリフォルニアへの挑戦

1767年、スペイン国王カルロス3世はイエズス会の追放に署名します。

このことは、イベリア半島と新世界の人々に強烈な影響を及ぼすことになります。もう一大事ですね。

結果、多くのイエズス会の宣教師は新世界を去ることをを余儀なくされました。

イエズス会が去った後、マヨルカ島ペトラの星ジュニペロ・セラが宣教師に任命され、8人の宣教師を引き連れてカリフォルニアへ旅立つことになったんですね。

 

最初の布教先はバハ・カリフォルニア

1768年にロレトに到着。

当時、狩猟を主にしていた住民たちの集落を訪れ、多くの福音を広める活動を行います。

その後、アルタ・カリフォルニア(アッパー・カリフォルニアとも言う:現在のカリフォルニア州などを含める地区)へ向かいます。

 

ジュニペロさんカリフォルニアでの偉業

カリフォルニアのミッション9つ

1769年から1782年にかけて、ジュニペロさんはカリフォルニアに9つのミッションを設立します。

1.サン・ディアゴ・デ・アルカラ(San Diego de Alcalá)

2.サン・カルロス・ボロメオ(San Carlos Borromeo)

3.サン・アントニオ・デ・パデュア(San Antonio de Padua)

4.サン・ガブリエル・アルカンヘル(San Gabriel Arcángel)

5.サン・ルイス・オビスポ・デ・トロサ(San Luis Obispo de Tolosa)

6.サン・フランシスコ・デ・アシス(San Francisco de Asís(Dolores mission))

7.サン・フアン・デ・カピストラノ(San Juan de Capistrano)

8.サンタ・クララ・デ・アシス(Santa Clara de Asis)

9.サン・ブエナヴェントゥラ(San Buenaventura)

っとね。

これらのミッションは、徐々に町や都市へと発展していきます。

中でも有名なのがサンフランシスコとロサンゼルスです。

ベルばあ
えらいデカなったな。

 

ジュニペロ・セラ銅像

出展:The orange country register

ジュニペロさんは1784年8月28日、70歳でこの世を去ります。

サン・カルロス・ボロメオに埋葬、1988年9月25日ローマ法王ヨハネ・パウロ二世によって列福され、カリフォルニア州の守護聖人の称号を得ることになります。

アメリカでは7月1日、メキシコでは8月26日をジュニペロ・セラの祝日とし、ヒスパニック系アメリカ人、宗教家の守護聖人ともされておるんです。

ジュニペロ・セラのマヨルカアーモンド

ジュニペロさんはしばしば自分を罪人であり、何の価値もない司祭であると話しています。

彼は精神を浄化させるため、肉体を自らむち打ち、説教では自分の胸を石で打つような苦行を行いました。

布教中には地元民を異教徒とし、人々の血も流れたわけですが、少なくとも彼は純粋にキリスト信仰を全うし、カリフォルニアにアーモンドを伝えたマヨルカ人ってことで。

マヨルカ島ペトラにある、ジュニペロさん博物館の入り口には、金属製のアーモンドの木が飾られています。

マヨルカアーモンドをボリボリ食べながら、ふーん。美味しいなぁ。と感慨にふける田中なのでした。

ふーん。っちゃなんね!
マリア

いや、美味しいなぁと。

 

アメリカにアーモンドが伝わってから200年余り。土壌や気候の差なのか、マヨルカアーモンドの子孫カリフォルニアアーモンドではございますが、味や栄養価が全く違ってきているのです。

あら不思議。

マヨルカアーモンドに関してもっと知りたい!あなたには、こちらのサイトで引き続きどうじょ。

 

では、多分次回。「ジュニペロさんを訪ねて~生家に行ってみたら閉まってた」をお送りいたします。

トメウじい
ほな。また。

 

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