はい。堅苦しいタイトルで重々しく始まりました、軽はずみなサイト「マヨルカくる?」でございます。
今回も、フランシスコ会修道士、マヨルカ島ペトラ出身の聖人ジュニペロ・セラについてのお話です。

はいはい。推してます。
と言うことで、前回までのおさらい。
ジュニペロ・セラは、アメリカ合衆国議会議事堂に唯一、スペイン人で銅像が飾られている北アメリカ創始者の一人でございまして、メキシコ合衆国の世界遺産「ケレタロ州シエラ・ゴルダのフランシスコ会伝道所群」を設立した、マヨルカの聖人なんでございます。

カリフォルニアにアーモンドを伝えたのも、このジュニペロさんなんですね。
色んな事はさておき、食い気、大事。アーモンド、美味しい。ということで、ジュニペロさんにがっつり食いついてしまったわけですよ。

何言ってるんですか!ミジンコはメスだけで増えることができるんですよ!

環境が悪化したらオスが登場して、水なしで20年以上耐えられる強い卵を作るんです。ま、じじいはいらんけど。

と言うことで、今回はジュニペロ・セラ博物館に潜入です。
ジュニペロ・セラ博物館でカリフォルニアまでの足跡を辿る
マヨルカの中央あたりに位置するペトラ。
ペトラを歩くと、かなりの割合で遭遇するのが、この石板。
この、十字架を掲げてミッション(フランシスコ会伝道所)を抱いているのがジュニペロさん。
フランシスコ会伝統のローブを身にまとっていますね。
腰には苦行縄が巻かれ、3つの結び目があります。この縄は神の象徴で、3つの結び目には清貧、貞潔、服従の三誓願があるんです。

さて、このジュニペロさんの石板率がやたら高い通りがあります。3軒に2軒以上の民家に飾られているんです。
それが、ジュニペロ・セラの生家と博物館へ向かう通りです。
その名も「Carrer de Fra Juníper Serra (スペイン語:Calle de Fray Juníper Serra)」修道士ジュニペロ・セラ通り。
彼の業績を陶板画にしたものは、彼の生家と彼が少年時代に学んだ聖ベルナルド修道院を結ぶ通りに並んでいます。

で、これがジュニペロ・セラ博物館です。
って、閉まっとるやないかい!!

はい。と言うことで2回程行ってお休み。3回目にようやく開いていたわけです。
8月に行ったのが間違いでして・・・

3度目の正直というわけで、ようやく中に入れてもらえたわけです。
って、誰もいないし・・・
あ、いた。こちら、マルガ。この博物館を訪れると、彼女が案内してくれます。
色々説明しながら、生家まで案内してくれるという。その間、博物館人いないよね・・・平和だ。
マヨルカの聖人ジュニペロ・セラの生家
ジュニペロさんは、貧しい農家で生まれたんですね。
その家がこちら。簡素ながらも美しい。マヨルカ伝統の家ですね。

アンティークな家具や小物も展示されてありますね。
テーブルには記帳できるノートも置いてあって、マルガから何か書いてって言われたんですけど・・・

キッチンですね。今でも義母の家にあるものが、チラホラ・・・
はい。これ中二階。ここに家畜のえさを置いていて、下の家畜に落としてたらしいです。
あ、家畜、家の中で飼ってたんですよ。このエサの貯蔵場所が一番暖かかったらしく、子供たちはここで寝ていたそうです。
この床、気になりません?
これ、家畜が足を滑らせないように、滑り止めとして敷いているんです。
家の天然(旦那)のテンションがやたら上がり、家の床もこれにしよう!と言い始める。

何なんですかね?どこの馬の骨とも知れない家畜を、家に連れ込むつもりなんですかね?
私のかわいいルンバを破壊しようとしてるんですかね?
庭には小さい石窯がありますね。素朴なパンが焼けるニオイがする(妄想)。
ジュニペロさんも、パンボリ食べてたんだろうなぁ。

この窓は、隣の博物館のものです。
小さな庭ですが、ディーツが実っていたり、バラやブドウ、色んな植物が植えられていました。
こちらは二階の寝室です。シーツにはマヨルカ刺繍がほどこしてあって可愛いです。

ギクッ。
2階も楽しい。
何か知らん草でできた蓑みたいなのとか、農具だとかも展示されています。
ぶら下がってるのは、果物を干すマッシーンですね。ネズミ返しも施されてます。
子ども用の椅子やベッド。歩行器もありますね。
こちらのジュニペロさんの生家、博物館が開いている時は開放されています。
無人ですので、ぐれぐれも、ぐれぐれも・・・・
ジュニペロ・セラ博物館のあれこれ
こちら、やっと入れた博物館。
ジュニペロさんの手紙やら、文書をはじめ、アメリカ大陸で当時使われていた品々など展示されています。
こちら、カリフォルニアのネイティブアメリカンが使ていた石器。
サンフランシスコ美術史博物館よりの寄贈です。
インディオの人形やら装飾品も飾られています。
可愛らしいですね。
ジュニペロさんのカリフォルニアへの旅は、サンディエゴから始まります。
イエズス会の退去により、バハ・カリフォルニアで宣教を続けていたジュニペロさん、足の感染症にかかっていて動けない状態だったんですが、サンディエゴへの道を選び、それを遂行するんですね。
動物の油脂とハーブで回復した後、さらにジュニペロさんは徒歩で進み続けます。
フランシスコ会の謙虚さを貫き通すわけでございます。
神はここまで来る力を与えられた。途中で死んでしまったとしても、私は引き返しません。
神が望むなら、死後異教徒の土地に葬られることも、喜んで受け入れます。
サンディエゴに船で渡る際、ネイティブアメリカンを含む多くの船員が壊血病で命を落としました。
遠征に参加した約300人のうち半数以上の人は病気で衰弱し、さらに食糧の供給も少なく旅は困難を極めます。

航海中は、新鮮な野菜や果物を口にできませんからね。
フランシスコ会って?
1208年、アッシジのフランチェスコが始めたカトリック教会の修道会です。
聖フランチェスコは、裕福な家庭に育ちましたがそれを放棄し、キリストの生涯を模範として生きます。
金銭は全く受け取らず、日々の食事を肉体労働や托鉢で行ったことから「托鉢修道会」とも呼ばれています。
「裸のキリストに裸で従うこと」福音書でイエスが命じているすべてを実行することに賛同者が現れ、その集団を「小さき兄弟団(Ordo Fratrum Minorum)」と呼ぶようになりました。
これはフランシスコ会のざっくりとした始まりです。
カリフォルニアのミッション設立にも、多くの血が流されます。
新しい文化に友好的な先住民族もいましたが、土地を奪われ、文化を否定されるわけですから、そこに争いが起こるのは当然の成り行きですよね。
多くの先住民はスペインの侵略に、最初から抵抗しています。
ジュニペロ・セラが設立したミッション
キリスト教に改宗したネイティブは隔離され、ミッションを自由に出入りすることが許されていませんでした。
ミッション建設にも、先住民の労働力を必要としましたし、スペイン植民地として家畜や穀物の生産が義務付けられていたわけです。
先住民の経済的支援として、農業を教え学校も作ったわけですが、神の教えを広めて人々を救う使命なわけですが、後ろ盾はスペイン王国。
国益のために先住民の労働力と、その土地の資源が提供されていたのも事実です。
はい。これジュニペロさん。
「薔薇の名前」でショーン・コネリーがやってた、あの恰好ですね。
修道士は頭巾付き上着一枚だけを持ち、履物は必要な者のみ許される。
髪型はお馴染みのトンスラですね。

トンスラってなんね?
広くは髪の毛を剃ることで、ラテン語の(tōnsūra:トーンスーラ)に由来します。
カトリックの修道士の、頭頂部をグルグルーっと剃り落した髪型でおなじみですね。
中世のはじめヨーロッパでは、男性も長髪だったわけですが、トンスラは俗世と決別した聖職者の象徴のようなもんでした。
始まりは諸説ありますが、使徒ペテロがアンチキリストに頭頂部の髪の毛を切り落とされた説、キリストさんのいばらの冠を模している説、神が手を触れるのが頭だから説、諸説あります。
13世紀以降はすべての聖職者が義務付けられていたトンスラ、1972年には公式に廃止されてしまうんですね。残念です。
この習慣が続いていれば、世のお父さん方も、自然トンスラを意識的髪型だと言い張れていたんですけどね。

もう、ハリウッド俳優だとか、フットボール選手が流行らせたらいいんですけどね。

いえ。あなたのはズルむけです。
マヨルカ人、毛髪に関してはあまり少なくなっても気にしないというか、潔く短くする人が多いですね。胸毛はボーボーですけどね。
生きてきた証ということで。かっこいいですけどね。
はい。毎度、話が完ぺきに逸れましたが、ジュニペロさん、スペイン軍とはうまく行ってなかったようです。
カリフォルニア軍事総督だったファージスとの対立は、ジュニペロさんがカリフォルニア宣教中ずっと続きます。
ファージスはいわゆる暴君でして、植民地の住民を奴隷のように働かせていたわけです。
ジュニペロ・セラはスペイン兵から先住民を守り、よりよい農地を見つけるためにミッションを移したり、ミッションでの生活が公正に扱われるように尽力しました。
彼らに寄り添い、慈悲深く寛容であり、先住民族に対し救いを説いたのです。
この鐘、ジュニペロさんが設立したカリフォルニアのミッション全てにあるそうですよ。

彼がキリスト教に改宗することを先住民に課し、選択肢を与えなかった。ミッションは素晴らしいシステムではなく、強制収容所だった。という現代の見解もあります。
しかし、カリフォルニアの何千人ものネイティブアメリカンはカトリック信仰を続け、最初のネイティブアメリカンの司祭、ミッションに直接関与していた部族もジュニペロ・セラを支持を表明しています。

博物館から少し歩くと、ジュニペロさんが洗礼を受けた教会があります。
パイプオルガンの音色も美しい、田中プレゼンツ、マヨルカ落ち着く教会トップ10にはランク入りするずっしりした教会です。
運が良ければ、マヨルカおばあたちによる、説明を受けることができますよ。
おばあたちはボランティア。一人のおばあはドイツ語でドイツ人に果敢にアタックしてました。凄い。
何でドイツ語喋れんのか聞いたら、「こんなもん喋れるうちに入れるかいな。」と。素敵。
マヨルカおじいも、おばあも親切なんで、カタコトでいいのでスペイン語で話しかけてみてください。
何とか対応しようとしてくれますよ。

あ、ちなーみに、ジュニペロさん、アーモンドを伝えただけでなく、カリフォルニアにブドウを植えた人でもあるんですね。
そんなわけで、「カリフォルニアワインの父」とも呼ばれているんです。
このブドウも、多分スペインの株じゃないかって言われてるんですね。
1880年頃までカリフォルニアワインでよく使われていて、ミッションブドウって呼ばれていました。


まぁ、カリフォルニアワインもお財布は救いますよね。お手ごろ価格だしね。
ってなことで、一粒のお米に7人神様が乗ってると言ったら、しばらく口を開けたまま「神様、もう逃げた?食べていい?」と一口ごとに息子に聞かれる羽目になった、もう一神教でよくね?と思う田中がお送りしました。
