どうも。フランソワ・カシミール・デュドバンです。
あ、私です?
フランスの女流作家、ジュルジュ・サンドの夫でして・・・
へ?あ、そう?じゃ、どうも。アルフレッド・ド・ミュッセです。
え?私ですか?
フランスのロマン主義作家でして詩とか得意なんですよね。で、ジョルジュ・サンドの愛人してましたけど。
え?あ、ダメ?じゃ、私パジェッロ。イタリア人医師でして、ジョルジュ・サンドの・・・
はい。と言うことでございまして、今回の徘徊先はマヨルカの美しい村バルデモサ(Valldemossa)でございます。
ショパンとサンドが愛の逃避行?を行い、一冬を過ごしたことでも知られている、トラムンタナ山脈の山間にある村なんでございますね。
田中としては、マヨルカの聖人サンタ・カタリナ・トマスの方が気になって仕方ないんですが、やっぱり皆さんショパンが気になりますよね?
と言うことで、ショパンの博物館とかも徘徊しましたよ。
えぇ、何とでもお言い。今回は、バイデモサでLet's徘徊!
今回のお題目
バルデモサ~ショパンとサンドが一冬過ごした美しい村
マヨルカには聖人が2人いるんですけども、その一人は前前前前回くらいにご紹介したアーモンドをカリフォルニアに伝え、カリフォルニアワインの父とも言われるジュニペロ・セラ。
そしてもう一人、マヨルカ最初の聖人が、サンタ・カタリナ・トマス。ここバルデモサ出身の聖人なんですね。
あぁ、そうでした。そうでした。ついつい。
もとい、ここバイデモサ。トラムンタナ山脈の山間にある小さな村でして、緑も美しく主都パルマからもバスで40分程度とマヨルカの観光人気スポットとなっとるわけです。
もうそろそろ観光客も引けてるだろうと思い、訪れたのが10月初め。
いやいやいやいや。溢れ返っとるがな。
なんか、もう疲れたんでバルで休憩でも。
へぇへぇ、ちゃんとやりますから。
バルデモサ名物コカ・デ・パタタ
バルデモサ名物と言えば、コカ・デ・パタタ。
バルデモサのバルやパン屋さんには、必ず置いてあるパンでございます。
パタタと言うのはジャガイモでして、パン生地にジャガイモを練りこんで作っているんですねぇ。
マヨルカではクリスマスに食べられるお菓子(パン)としてお馴染みなんですが、バイデモサでは年中あるんですね。
作り方はこちらでございます。
今回は、1920年創業のパン屋さん「Ca'n Molinas」でおやつ。
うおっ。5センティモスも値上がりしてやがる。
中庭はこんな感じ。
雀っぽいのがウロウロしてますね。
田中:この鳥何て名前?
天然(旦那):小鳥。
小鳥・・・・
天然(旦那):小さい、鳥。
バルデモサのショパン博物館
はい。と言うことでございまして、ショパン博物館ですね。
博物館のみなら入場料は4€。田中が訪れたのは日曜日。
田中:へ?コンサートとかやってないの?
受付のおばちゃん:ないで。
田中:カルトゥハ修道院は?
受付のおばちゃん:ないで。
マジですか。と言うことで、ショパンを堪能したい場合は平日でお願いします。
カルトゥハ修道院のチケットは9.50€。オンラインだと10%割引でございます。
開館時間は10:00~16:30(月曜から土曜)
えーっと何々?この看板によりますと、
カルトゥハ修道院開館時間:2月~10月 月曜~土曜 10:00-16:30
ピアノリサイタル:月曜~土曜 10:30・11:30・12:30・13:15・14:15
となっておりますな。冬季は休館でございます。
ショパン博物館の開館時間はといいますと、
4月~10月:月曜~土曜 10:00-18:00(日曜 10:00-14:00)
1月:月曜~土曜 10:00-15:30
2月:月曜~土曜 10:00-16:30
でございます。
ショパンとサンド愛の逃避行
1836年、リストの紹介でショパンとジョルジュ・サンドは出会うんですね。
そのころショパンには婚約者がおりまして、サンドのショパンに対する興味とは裏腹に、何も興味を示さなかったらしいです。
1838年に開かれた夜会で即興演奏をしたショパンに完全に心を奪われたサンドは、ぐいぐい行き始めるんですね。
婚約者と破談になっていたショパンも、サンドが送った手紙にときめいてしまったらしく、その手紙を生涯大切にしたそうです。
と、始まったショパンとサンドなんですが、ショパンと付き合いながらも前の愛人と完全に切れてなかったサンド。
ショパンとの仲を知ってストーカーと化した愛人、パリのゴシップから逃れ、病弱なショパンと息子モーリスの療養もかねてマヨルカへと旅立ちます。
ショパンはマヨルカ旅行費として、完成が近かったプレリュード集を2000フランで売り、さらに友人から1500フラン借りたそうですよ。
逃避行もお金がかかるんですねぇ。
バルセロナから蒸気船に乗って、1838年11月8日にパルマ港に到着。
パルマから7キロ北にあるEstabliments(エスタブリメンツ)の別荘Son Vent(ソン・ヴェント)を借りて、滞在していたんですね。
ここでは、「マズルカOp41-2」「プレリュードOp28-4」「プレリュードOp28-2」を作曲したと言われております。
そのころショパンが友人に送った手紙には
何もかもがアフリカを連想させる。すばらしい生活だ。僕は美しいものの側にいる。真の人生を始めようとしている。
みたいなことが書いてあるんですけども。
エスタブリメンツで結核と診断されてしまうショパン。
ソン・ヴェントの家主は結核を恐れ、ショパンとサンドに立ち退きを要求します。
当時結核が不治の病だとされて恐れられていたマヨルカ。スペインでは伝染性がある病気として、患者が使用したものは焼却や消毒が法律で義務付けられていました。
一方フランスでは伝染病でなく遺伝病とされていたので、彼らの温度差ときたらなかったでしょうね。
しかも、ショパンとサンドは結核って信じてなかったみたいですし。
その後フランス領事を頼っていたサンド、12月15日に予約してあったバイデモサのカルトゥハ修道院に移ります。
バルデモサに移ったショパンとサンドですが、まぁ冬のマヨルカ。寒いし雨降るしねぇ。
ショパンの体調は思わしくないわけですよ。
私は世界で最も美しい国の魅惑的な修道院に住みます。海、山、十字軍までさかのぼる教会、墓地、遺跡、千年前のオリーブの木・・・親愛なる友よ。私は人生を楽しんでいます。世界で最も美しいものの傍にいます。
ショパン
さらに、恐れられている結核を患っている若い愛人ショパン、男装して葉巻吸ってるサンド、ズボン履いてる娘、ミサに出席することはない二人、結婚せずに教会という神聖な場所に住んでいる二人・・・
住民たちからは不道徳に思われていたわけです。
20世紀にはじまったマヨルカの観光都市化。今は観光客で溢れる村になってますけど、言うても、当時のバイデモサって山間の田舎の村でしょ?
信仰が熱い上に、閉鎖的だったと思うんですよね。ショパンとサンドは、村人からは敬遠されてたようですよ。
思うに、いい思い出ないんじゃないの?
「私を男と思いなさろうと女と思いなさろうとご随意に。私はどちらでもない。一個の存在です。一人の友達、兄弟であり姉妹であるとおぼしめせ。あなたへ男並みに尽くす点では兄弟、心の細やかさを読み取り理解する点では姉妹なのです。」
サンド
サンドは男装して乗馬や狩りを楽しんでいた人なんで、色んな好奇の目にさらされていたんでしょうね。
サンドを揶揄する人たちに向けた言葉でしょうが、どちらでもないってことは、ないと思うんですけど。
それだけ、女性が強く生きることが難しかった時代なんでしょうね。知らんけど。
翌年、プレイエルのピアノが届いたことで、少し調子を取り戻したショパンは、「24曲のプレリュード」、「バラード2番」、「ポロネーズOp40-2」を完成させ、「嬰ハ短調スケルツォ」に取り掛かりましたとさ。
でもやっぱりバルデモサがしっくりこなかったサンド、ショパンの体調が最悪な状態で1839年2月11日にバルデモサを去ることになります。
帰りも酷いもので、パルマへの道のりは荷車。パルマでショパンは喀血。
舟でも一番悪いベッド。バルセロナのホテルでも、寝具や家具を焼却するための代金を請求されることになります。
そんな感じ!
詳しくは、ジョルジュ・サンド著:「マヨルカの冬」Un hiver a Majorqueをチェキラ!
読んでないけど。
ちなみにサンドは、想像しうる最も不幸な旅・莫大な費用を散財・私たちはマヨルカ人の獲物・湿気で服は濡れる・スペインは呪われた国・いやらしい国って手紙に書いてますけどね。
夏、来たらいいですね。
手、小さっ。田中の手と同じくらいやん。
リストの手も大きいかと思ったらそうでもないし。
この左手とデスマスク、彫刻家クレサンジュが取ったものです。クレサンジュはサンドの娘ソランジュの旦那さんですけども、サンドとは折り合いが悪く、ショパンとはサンドと別れた後も交流を続けていたらしいでっせ。
このデスハンド、ポーランドのお土産屋さんで買うことができるそうですけどもね。いる?
バルデモサをバーチャル観光するなら!マヨルカくる?Youtubeチャンネルをご利用くださいませ。
詳しくは、こちらから。
バルデモサをバーチャル観光!マヨルカ島の路地散策からカルトゥハ修道院まで
スポンサーリンク
マヨルカの聖人サンタ・カタリナ・トマスを訪ねて
はい。と言うことで疲れましたね。
もう一個、疲れる作業をですね、してみたいと思いますけどね。
では、バルデモサの歴史をちょこっと。
マヨルカの美しい村バルデモサの歴史
バルデモサに人類の痕跡が見られるのは、紀元前4800年頃。
ここバイデモサにもマヨルカの古代遺跡、タラヤットを見ることができるんですね。タラヤットが建築されたのが紀元前2200年頃何で、その前は洞窟のなかで暮らしておったそうでございます。
足りるかい。
バイデモサの自治体ができたのが10世紀。ムッサ渓谷の肥沃な土地という意味の「Wadi Muza」や「el vall de Musuh」と名付けられました。
ムッサって何?と言うと、なんだかロマンチックな昔話が・・・・
ムッサ愛の物語
ムッサとは、昔このあたりを治めていた光り輝くような青年のムーア人の名前でして、彼はマヨルカ人の美しい女性(奴隷)に恋していたんですね。
ある日領地の散歩から帰ったムッサは、美しい奴隷が出迎えないことを不思議に思います。
屋敷に入ったムッサは空っぽの室内と、惨殺されている使用人たちを発見します。彼の留守中に海賊が押し入って全てを奪い去って行ったのです。
怒り狂ったムッサは単身で海賊船へと向かいます。
海に飛び込んだムッサを、海賊の頭は弓で射るように命じます。無数に射られる矢、海賊たちはムッサを返り討ちにしたと歓声を上げ始めます。
ところが、右手に短剣を手にしたムッサがふわっとジャンプしたかと思うと、頭の心臓に持っていた短剣をズブッと突き立てます。
これを見た海賊たちは、跪いて奴隷にしてくれるように懇願し、ムッサは海賊を壊滅させたのでした。
海賊船で恋人を発見し、彼はこの時の恐怖を取り払うように彼女をいたわったということです。
彼の宮殿があった場所が、今のカルトゥハ修道院だと言われているんですね。
で、ムッサの谷は、「vall de Mussa」と呼ばれるようになり、現在のバルデモサの原型になったのがこの名前ですね。
ね?
1309年、ジャウマ2世は狩猟の為の宮殿を建築します。
その宮殿で働いていたラモン・ルイが宣教師のための語学学校「Miramar」を設立、1399年にはこの宮殿を寄贈。カルトゥハ修道院が奉献されたのは1446年でございます。
1450年にはグーテンベルクの印刷機が発明されましたけど、バイデモサに印刷機が登場するのは1485年とかなり早く、バルデモサの芸術家のための書籍を出版するのに早くから使用されたんですね。
ってなことでど~んと飛んで20世紀。パルマとバイデモサをつなぐ道路が完成します。
美しい山岳にありながら、強い光が差し込むここバルデモサ。多くの芸術家たちが愛するようになるんですね。
はい。終わり。しんどい。
マヨルカ最初の聖人サンタ・カタリナ・トマス
カタリナ・トマスは1531年5月1日に、バルデモサで生を受けます。
6人兄弟の末っ子で早いうちに両親を亡くし、母親の姉妹に預けられます。
21歳でパルマのサンタ・マグダレナ修道院に入ることができたのですが、当時は修道院から一歩も外に出ることができない状態でした。
体があまり強くなかったカタリナは、厳しい修道院の生活でよく体調を壊したそうです。
そのことにより一層信仰を厚くした彼女は、神秘的な体験や未来予言をするようになります。
ある時、修道女が讃美歌を歌うために彼女に砂糖を求めると、彼女は教会の中心でそれを渡すと言います。
修道女が教会へ向かうと、手のひらに砂糖のパンが現れたそうです。
彼女は時々発作に襲されました。そのトランス状態は24時間続き、その後に彼女は暗黒と戦っていたと語ります。
暗黒の力による彼女への暴行は次第に悪化し、晩年の数年間はほとんど発作に襲われていたそうです。
そして、彼女は自分が天に召される日を予言し、1574年4月5日にその一生を閉じます。
彼女の物語は、そんなに多く残されてないんですね。
でも、バイデモサの村を歩くと、とにかく家々に彼女の物語を描いたタイルを発見できます。
バルデモサを歩いて、コンプリートしてみるってのはいかがでしょうか?
少なくとも、20種類はありますよ。
サンタ・カタリナ・トマスは1792年に列福、1930年に列聖されました。
7月28日にはバイデモサで、9月の第一日曜日にはサンタ・マルガリダ、10月の第3土曜日にはパルマでサンタ・カタリナ・トマスの祭りが行われます。
もう、終わっていいですか?
はい。どうぞ。
はい、どうぞ。
ではまた、バルデモサでお会いしましょう。
と言うことで、バルデモサでホテルをお探しなら、断然こちら!
田中厳選、バルデモサのおすすめホテルをご紹介です。
バイデモサまでのアクセス
パルマ中央バスセンターより、バス210ラインで約30分
バス停よりカルトゥハ修道院まで、徒歩3分くらいですかね。